与えられた年収で最大限楽しむ

自我の形成と自立による価値観(2014.6.13)

 最近の若者は思春期の独り立ちの悩みというのはあまりないのでしょうか?私が高校生の頃は、自分と他人は何が違うのか?と言うようなことを良く考えて、自己とは、自立とは何かという、ちょっと哲学めいた妄想をそれなりに抱き、同じような悩みを抱える友人と、高校の授業をサボって喫茶店に行き話をしていた記憶があります。

 当時は今のようにネットが発達していませんから、他者とのコミュニケーションは会話にならざるを得ません。学生時代には、飲みながら社会全般について、夜を徹して話をすると言うこともやりましたが、そういった議論に毛の生えたような会話を通して、自分なりの見方が形成されていったのかなと思えます。

 友人との話の過程では、親からの独立みたいな話も良く出てきて、「一人暮らしをする」というのも、ある意味憧れだったように思います。要するに口うるさい親から離れて、自分の力だけで生活したいという欲求です。

 今でも一人で生活しているような学生さんは大勢いいると思いますが、その理由は、進学先が家から遠いという条件があるためということが多く、「出来れば家の方がよい」と考える若者も多いのかもしれません。

 また保護者の方も、「一人暮らしなんて危険すぎる。心配だ」と考えて、出来れば進学先は自宅近く(お金の問題もありそうですが)で目の届く範囲で生活してもらいたい、と思っている人が多いような気もします。

 最近の高校の卒業式には、一人の卒業生のために保護者二人、兄弟、祖父祖母なんかも一緒に出席することがあり、会場の椅子の準備が卒業生の2倍以上の数になることも珍しくありません。

 話がそれました。というわけで、我々が若かった頃は(というと若者からは何を年寄りが偉そうにと反発されそうですが、実は私も若いときは年寄りに反発を感じていましたし、その頃の年寄りはやはり若い我々に向かって似たようなことを言っていたのだと思います)自己の確立ということが自然に行われていたような気がします。

 これはどういうことかといえば、根本的に当たり前ですが「自分と他人は外見も考え方も価値観も異なる」さらにいえば、その個人を取り巻く家庭の経済力や両親の職業や考え方、生活環境も異なるということを互いに認める、というのが共通認識だったように思います。

 つまり、根底に自分と他人は様々な意味で違いがあるということを認めるわけで、そうなると就職後も年収が異なるのは当たり前、職場環境や家庭環境が異なるのも当たり前と言うことになり、その考えをさらに発展させると、人の環境を羨んでもしょうがないという考えに至ります。

 「自分は自分、他人は他人」「自分が出来る範囲で面白いこと、楽しいこと」を行うために何をすればいいのか?ということを常に考え、私は実践してきたように思います。

 そう考えると、Aさんの年収は2000万円だと聞いて、多少はうらやましい気もしますが、まあそれは他人の話で、私は与えられた年収の中で最大限人生を楽しもうと言う発想になります。

 そういった考えを持ち続けられると言うことは、根底に自分自身の中に筋の通った価値観があるからだろうと思えますが、それは最初に書いたように、高校から大学時代にかけて自然に作られていったような気がします。

 流行しているから、安いから、みんなが買うから、みんながやるから、多くの人が良いと言っているから、というように常に他人の尺度で自分の行動を決めていると、いつまでたっても自分本来の楽しみは得られないようなが気がします。(何だかまさに年寄りの繰言めいた話になってしまいました。笑)


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