人とのやり取りに会話が存在しない

サービスは満点だが、温かみのない空間(2016.1.11)

 ここ2日ほど間に、いろいろな話題が生まれていました。主として新聞からですが、読みながら、「あっこのニュースはこのサイトの話題として使えるかも」と思うことも多いのですが、そのまま次の記事を読んでしまうと、もう最初の話題を忘れています。

 気が付いたときにメモすればいいので、いつも新聞の傍らに小さいメモ用紙を置いて、気が付いたらそこに項目を書いたりしているのですが、これも二日たって改めてそのメモをみると、「あれ?何について書こうと思ったんだっけ?」と記憶の不確かさに愕然とします。

 そんな中、メモ用紙に残っていた項目は「軽減税率」「電力自由化」「参議院選挙」「いじめ問題」「北朝鮮水爆実験」「サウジイラン問題」「世界同時株安」といった問題。

 新聞を読んでいて、「これは面白いな」と思った記事は毎日新聞の日曜の朝刊の「無駄ゆえの豊かさ」というエッセー。村薫さんという小説家が書いたものですが、「なるほどな」と感じました。

 今の日本の社会はよく言えば「おもてなし」の精神に溢れていますが、悪く言えば「余計なおせっかい」に満ちているとも言えそうです。

 スーパーに行くと、何やら天井から心地よいリズム感のある音楽が流れ、レジに行くと係りが実に素早くかつ丁寧に、場合によっては、すでにラップしてある商品をさらにビニール袋に入れてくれたり、弁当や総菜を一緒に買うと、暖かいものと冷たいものを分けてくれたりします。

 「ありがとうございました」、とお釣りやレシートを渡すときは、高齢者の両手から小銭が落ちないように包み込むように渡してくれることもあり、「ありがたいことだ」と思いつつ、どこか心の隅に「なんか変だぞ」という気持ちも芽生えます。

 こういった様々なサービスの行為は、ファーストフード店も含めて、事細かにマニュアル化されているのだと思いますが、なぜか行き届いたサービスだなとは感じますが、温かみは感じません

 それはたぶん買う方の側も、そういったサービスが当たり前だと感じていて、ある意味安い買い物でも王様のような気分に浸れるからかもしれませんが、それは要するに対等の立場でコミュニケーションをするという関係が崩れているからだと思っています。

 つまり昔の八百屋さんや魚屋さんと買い手の間にあった、「これは安いよ」とか「今日はこの魚が良いよ」というコミュニケーションを伴った関係がなくなってしまったからだと思います。

 サービスは満点ですが、そこに会話は全くない不思議な空間が、スーパーのレジ周辺で生まれているなといつも感じています。


表紙に戻る 老後の人生観2 ファーストクラスに乗る人