家族としてのまとまり

手作りの夕食が消え、家庭が崩壊(2016.12.27)

 私の好きな旅行先のバンコクでは屋台料理が発展しています。最近になって軍が屋台の浄化?に乗り出してきて、主要な道路の歩道上に出店していた食べ物屋台はどんどん撤去が進み、営業している方も、そこで買って食事していた客も、双方が不満を持っていると思います。

 ただこの屋台は通行の邪魔になっていたことは間違いありません。その意味ではその歩道を行き来する人たちの何割かは、いなくなってすっきりしたと思っているのではないでしょうか。

 しかしそもそもなんでこんなに屋台が発達してきたのかというと、どうやらタイ(バンコク市街)では家庭内で料理をするという習慣がほとんどないようです。

 屋台でおかずを買うと、すぐそばに置いてあるビニール袋に総菜やご飯が手際よく入れられ、あっという間に弁当の形になります。消費者はそれを持って帰って自宅で食べるということです。

 もちろん面倒な人は、路上で発泡スチロールのカップに入れてもらい、その場に座り込んで食べるという人もいます。ということは・・・タイの女性は料理ができない人が多いということになりそうです。

 そもそも家の中にキッチンと呼ばれる設備がないという部屋もあるようですから、料理しようがないということなのかもしれません。

 なんでこんなことを書いているかと言えば、日本でも家庭で料理をしない人が増えているという話を聞いたからです。テレビを見ていると、5時以降毎晩毎晩うんざりするぐらいおいしいものを食べる番組多いです。

 確かにおいしいんだろうなと思いますが、一方で家庭内で家族で会話をしながら食事をするとか、今日のおかずはおいしいとかまずいという評価をしながら食べるという機会は減っているような気がします。

 安倍政権は日本の景気浮揚のために、ともかく老若男女誰もが成人してから死ぬまで働かなくては生きていけないという雰囲気を作り出そうとしているように見えます。

 その結果、アルバイトや派遣を含めて就職者数は増えているのかなと思えますが、夜家族が集まって誰かがつくった手料理をみんなで味わうという機会も減っているようです。

 5時を過ぎてスーパーに行くと、ともかく総菜コーナーに弁当や惣菜が山と積まれています。当然これらのほとんどは夜8時ぐらいにほとんどはけてしまいますから、それだけ家庭内でこれらの物を食べているということです。

 ということは落ち着いておかずを作って、じゃあみんなで「頂きま〜す」、という習慣はどんどんなくなっているということでしょうか。家族のつながりを作る接点である夕食時に、食卓の上にはスーパーの総菜が並んでいて、各自それぞれスマホをいじりながら食事というのだと、なんだかなあという気がします。

 しかしそれでもそうやって一堂に会して食事ができる家庭というのは恵まれているのかもしれません。各自がそれぞれの場所で食事をして、寝るときだけ家に帰ってくるという生活がもうそこまで来ているような気がします。

 それが悪いというつもりはありません。しかし好むと好まざるにかかわらず現在の社会環境によって、そうならざるを得ないというのが問題だろうなとは思います。そしてその先にあるのは家族としてのまとまりである家庭の崩壊であるような気がします。


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