ショッピングモールの今後と墓参り

2017.2.23

 午前中はハワイとバンコク関連のブログの更新。昼を食べて今日は買い物は特になかったので近所のショッピングモールへ。平日のモールは閑散としています。

 今は一種のブームのような状況で、あちこちに大きなアウトレットモールが出来ていますが、やがて少子高齢化が進み、高齢者が激増するとこういったモールのお客さんも減り、閉鎖に追い込まれるところも出てくるのではと思います。

 そもそも広くて品数が多く、安くて便利なスーパーより、家のすぐ近くにあって一通りのものがすぐにそろうコンビニに年寄りが向かうのは、足の悪い高齢者にとって必然だなと思われます。

 モールの中を私はウォーキング代わりに歩いていますが、高齢者はモールの端から端まで歩くのも疲れるだろうなと思います。ましてやこれでもかとばかりに品数があると、選ぶだけでもうんざりという気持ちになるはずです。

 その意味では、今後先端技術が発展してモール内を自由に動き回る自走式の車椅子が出来て、手元のディスプレイで行きたい場所をクリックすれば自動的に連れていってもらえるというい技術の開発が待たれます。

 ただし物理的な問題はそれで解決しますが、メンタルな部分では寂しさを感じます。そもそも物を買うという行為は、もちろん自己満足するために行うわけですが、その途中に物そのものや売っている人、作っているメーカーと、消費者が買いながらコミュニケーションをしているといえそうです。

 典型的なのが、最近のスーパーではあまり見られない購買者と店員さんとのやりとり。この魚はどう料理するのかしら?と聞けば近くにいた店員さんが、「煮つけにすればおいしいですよ」と答える。

 そうすると、「じゃあ煮つけにするから中を出してもらえるかしら」となり、「ハイ分かりました。ちょっと待ってください」というコミュニケーションが成立します。

 しかし一部のスーパーやショッピングモール併設のスーパーでは、商品がきれいに陳列してあり、客はその中からこれぞと思ったものを選び出し、レジに持って行って精算という事になり、何ら人間的なコミュニケーションがありません。

 だからこそ息子がアルバイトをしているコンビニでは、おじちゃんやおばちゃん、果ては若者までが、商品についていろいろ質問してくることになるわけで、要するにコンビニでは客と店員との間の距離が近いと言えそうです。

 てなことを考えながらスーパーの商品をちらちら眺め、建物の外に出たら妙に暖かい。これは絶好の墓参りの日だと思ったので、(明日が妻の命日です)モール内の花屋さんに行ったら、確かに美しい花が飾られていましたが、1束が500円以上します。

 花の値段を気にするのもどうかと思いますが、もっと安い花があることを知っているので、結局車に乗って近くの農協へ。こちらは一束400円前後。

 故人が好きだった花の色を探し出し4束購入。その足でそのままお墓に行き(車で30分)花を飾ってきました。墓は墓石だけのお墓と、きれいな花が飾られたお墓は、やはり見た目が違うなと一人で納得して満足。

 ちなみに自分の先の命も見えてくるにつれ、墓参りへの意識も変わってきたように思います。私は理系の人間なので、どちらかというとこういう人間臭い、一種の儀式のようなことを毛嫌いする傾向がありました。

 面倒だし、墓参りをしたからと言って何らかのメリットがあるわけでもない。しかし最近になってようやく、これはやはり自分の気持ちにけじめを作っていく儀式なんだなと思うようになってきました。

 生きている間はいろいろなことがあるけれど、いなくなってしまえば残っているのはわずかな骨です。死後の世界があると良いななんてことを考えたこともありますが、クモ膜下出血で意識を失う直前、「もしかしたら終わりかも」と思っていて、その後の記憶は全くないので、もし終わっていればそのままス〜ット向こうの世界に行けたなと思っています。

 そう考えると墓というのは生きている人(墓の存在を意識できる人)が、自分は生きているんだという事を実感するための小道具であるような気もします。

 てなことを考えながら、買ったばっかりの花を供えて合掌。なんか不思議な気持ちに浸りながら帰ってきました。


表紙に戻る 老後(2) ブログの更新