軽はずみで無神経な発言が生じる理由

政治家の問題発言が取りざたされていますが(2013.6.20)

  自民党の高市議員さんの「福島の原発事故で死亡事故は起きていない」という軽はずみで無神経な発言がやり玉に挙がっていますが、この方に限らず、政治家の思いこみというか独善的な判断というのが目につきます。

 つい先日は大阪市長の橋本さんの発言が問題にされ、今もそのしこりが残り、仲がよいように見えた石原議員も、ちょっと持てあまし気味のようです。

 共通しているのは、自分の意見は100%正しいと信じていることでしょうか?裏を返せば、自分以外の人間の考えはすべて間違っていると断定しているようにみえます。

 思いこみや信念がないと政治家は出来ないという裏返しなのかもしれませんが、私のような学校現場で働いている人間からすると大きな違和感があります。

 学校のいわゆるホームルームまたは中学では学活と呼ばれた時間では、討論会みたいなことをかつてはやっていました。

 その際の教員は、中立的な立場で「この考えのこの部分は正しいけど、ここは問題があるかもしれない」とか、「君はそう主張するけど、相手の気持ちや立場を考えると、その考えは必ずしも正しいとは限らない」と、常に自分と相手の意見の整合性を問いかける指導をしていたように思います。とにかく互いの意見を尊重しようということです。

 ところがそういった討論会自体が最近は成り立ちません。意見をどうぞ、と言っても誰も何も言わない。自分の息子にも聞いてみたことがありますが、そもそも意見そのものが無い。これは恐ろしいことです。

 自分の意見がないから、他の誰かが強い主張をするとそれが正しように思え、簡単にその考えに共感、賛成してしまう。

 討論会で何らかの結論が出ると、生徒は一様に沈黙状態から解放されたようなうれしさを覚えるらしく、教員が「これで良いですか?」と聞くと、これは素直に「いいで〜す!」と声を出します。

 不思議な現象ですが、自分の意見がないと言うことは、自己が確立していないということで、簡単に他の人の意見に共感すると言うことから、最近話題になっている「ヘイトスピーチ」のような、異常?なデモが起きてしまうのかなと思えます。

 そもそも自分の意見を持つと言うこと自体が大変なことで、本来は相反する様々な主張の良いところや悪いところを自分なりに客観的に考え、自分の人生経験に照らし合わせて、自分だったらこう考えるという結論になるわけで、そのためには個々の問題についてかなり勉強する必要があります。

 しかしその勉強の部分を省略して、格好良さそうな、受けが良いような、誰かが強く主張しているから、過去に誰かがそう言っていた記憶があるから等々、様々な安易な理由で結論を出してしまうと言うことが多いように思います。

 その結果、その発言が他者から見ると単なる思いこみに見えたり、身勝手な発言に聞こえたりするわけですが、これはもはや政治家だけの問題だけでなく、私も含めて、いわゆる普通の企業や公務員、巷の社会生活の中でも普通に起こりつつある現象かなと思えます。 

 それに輪をかけてネット社会の匿名性が顕著になっていますので、相手の考え方や人権、立場を無視したような問題が日常的に起きているようにも思えます。

 日本はかつて相手を思いやる気持ちの強い国民性を有していたと思え、その性質は今も残っていると思いますが、一番頭の良いと思われている政治家が思いやりのない情けない発言を繰り返すようでは、国自体の力はどんどん衰退していくんだろうなと思わざるを得ません。


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