基本は「震災を忘れない」こと

東日本大震災から4年(2015.3.11)

 今日は東日本大震災があった日。あれから4年が過ぎ、徐々に記憶が薄れ掛けているという報道が連日行われています。確かに自分自身の生活を振り返ってみても、「もしかしたら原発の放射線が埼玉まで飛散するのでは」と不安になった当時のことを思うと、やはり「忘れているな」と素直に感じます。

 だいたい「便りのないのは元気な印」と言われて、人が誰も気にしないような状態なら、普通はうまくいっていると思うわけですが、福島の場合は、報道を見る限りあまりうまくいっているようには見えません。

 我が家には、今でも震災から数日後に購入した、ガムテープと隙間風用のスポンジテープが保管されています。購入理由は、原子炉が爆発を起こし、放射性物質が埼玉方面に飛散してきたら、家のあちこちの隙間をそのテープでふさぐつもりだったからです。

 またリビングルームの片隅には、今も小さな振り子が吊るしてあります。震災直後から余震が続きましたが、テレビで報道される震度と、天井から吊るされた振り子の振幅を見て、「また震度3だ」なんてつぶやいていたことを思い出します。

 今も時たま訪れる突然の小さな揺れで、いつのまにかこの振り子を見上げるのが習慣になってしまいました。

 災害はいつ起きるか分からないから災害なのであって、予測が出来れば未然に防ぐことは可能です。だからと言って確率的に非常に低い災害に対して常に備えるというのも不可能で、その意味では起きたあとどうするかという避難訓練が重要だと思っています。

 それにしてもここ数日にわたって報道されているニュースを見る限り、政治家が「復興を加速する」といくら叫んでも、人も資材も金もない状況の中では、物事はなかなか進展しないんだなという状況が良くわかります。

 政治だけの責任ではないと思いますが、復興予算という巨額の資金があったのにもかかわらず、一時期は本来の復興とはまったく別の用途に使われたりして問題になりました。

 その後、あの予算の使途は明確になって復興に直接使われているのでしょうか?マスコミは、失礼ながら庶民の生活に的を絞って現状はこうだという報道をすることにまい進していますが、政治の動きに対しては、見方が甘いような気もします。

 
 元を正せば津波による被害と、原発事故による被害の重複作用があるので、復興や補償問題も難しいのかもしれませんが、今問題になっている政治献金も、すべて復興予算にまわせれば、少なくとも多少の効果はあるのではと思われます。

 「献金を受けたことは知らなかったので罪にならない」という、小学生でもおかしいと思うような言い訳が通用する「政治資金規正法」というのは、実に不思議な法律です。

 しかし、それはそれとして、「確かに一般的な常識では問題になる事例だ」と素直に認め、献金側企業の了解の下に、それらすべてを復興予算に充当するなんてことをやれば、ちょっとは点数が稼げるのではと思ってしまいます。

 とはいうものの、政治家や企業だけを揶揄もしくは批判の対象にするというのも問題だろうなという意識もあります。つまり私自身が一人の人間として、この未曾有の地震や放射線漏れに対してどのような姿勢で臨んできたか、これからどう臨むのかということです。

 福島の現状を差し置いて、私がこれから出かけるハワイの海岸には、今でも震災の瓦礫が時折漂着するようです。つまり地球規模の災害だったというわけですが、これに対して個人として何が出来るのか?

 
 実際に実行に移せなくても、少なくとも「何が出来るのか」ということを考え続けることが、「震災を忘れない」ということにつながるのかなと思っています。
  
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