第二の人生に対する模索?

こんなお気楽生活でいいのか?という贅沢な悩み(2014.10.14)

 漠然とした不安を解消するのは難しいです。ストレスがなくなれば不安がなくなるのかと思っていたらそうでもないみたいです。

 日々の生活がほとんど問題なく過ごせていても、小心者の私は、「こんなに安定した生活が、いつもでも続くわけがない。きっと何か嫌なことが起こる」と思うときもあります。

 しかし何が起こるかはまったく予測がつきません。だからこそ漠然とした不安となるわけです。その意味では人生の指針となる手本がいない、ということもあるのかなと思います。

 だいたい人間というのは、一人では基本的に文化的な生活を維持することはできない動物です。生まれたときから絶海の孤島という環境で、食べるものがあったとしても、親や周りの人間がいなければ当然語学は習得できず、生活習慣なんていう概念もなく、ただひたすら動物のように食べて寝るという生活になるはずです。

 その意味では、人間社会という集団や家族というまとまりの中で、自然に文化的素養や社会的規範を学び、さらには親から子に受け継がれる伝統や考え方みたいなものもあるのかなと思えます。

 ところが私の場合、学生時代に父親を失っていますので、その後の人生は、周りの大人を規範とすることはできたもののの、家族の中で父親が老いていく姿というのを見ていません。

 もちろん父親からある程度の生活規範やものの見方や考え方というのは、言葉ではなく生き様として教えられていたような気がしますが、51歳で亡くなっていますから、60代になった私からは10歳も年下の父親の印象しかないという、奇妙な見方しか出来ません。

 当然ながら父親が老後に向かって何を意図して、どんなことを考えていたのかということはまったく不明です。またいわゆる男がいろいろと感じる老化現象について教えてもらう機会もありません。

 ましてや老後の生き方で私は「お気楽に生きる」を目標にしていますが、その規範となるべき対象がいないまま40年近く過ごしてきたことになります。

 もし存命なら、90歳近くになっているはずですが、振り返ってみればこの40年近く、私は格好良い言い方をすれば、独学で道を切り開いてきたとも言えそうです。

 当然ながらその道は山あり谷ありだったわけですが、ここに来てふと振り返ってみれば、人生の山上りもかなり先が見え、道は平坦になりつつある、ということでしょうか。

 しかし人間は強欲ですから、平坦になったとたん、なんだか物足りないと考えてしまうのが今の心境なのかなという気もします。

 その意味では巷で言われる第二の人生に対する模索なのかなという気もしますが、模索しっぱなしではどうしようもないなあという気もします。相変わらずうまくまとまらない文章ですが、要するに「こんな生活で良いのか?」という疑問が心の中にあるのだと思われます。


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