不自由な環境の中で達成感を得る

充実感、達成感の基準を下げる(2016.12.1)

 12月に入りました。今年は8月まではハワイやバンコクに行って羽を伸ばしていましたが、ご存じのように8月下旬に突如くも膜下出血を患い、8月下旬から9月上旬にかけてほとんど記憶がありません。

 その後9月後半は大学病院でリハビリを受けていましたが、これも「リハビリを受けた」という記憶はあるものの、その細かい内容や担当してくれた理学療法士さんたちの記憶があまり鮮明ではありません。

 唯一若くて美しくて明るい子たちだったと自分にとってうれしかった記憶だけが残っているのですが、やはりこのころはまだ高次機能障害があり、記憶の定着も悪かったんだろうなと思っています。

 10月に入り、大学病院でできる治療は終えたということで、とりあえず自宅に少し近いリハビリ病院に転院。この病院の記憶は鮮明になっていますので、いわゆる高次機能障害と呼ばれるものはだいぶ薄らいだかなと思っています。

 その結果、いわゆる運動機能障害はほとんどなく、記憶も確かなものとなり、呂律もごくたまに言葉が出てこないだけとなっています。

 しかし唯一相変わらず不快だなと思っているのが、ゆっくり歩いて急に方向を変えたりするとフラっとするめまいを感じること。これも転院直後よりずいぶんよくなったなと感じますが、かなりしつこく残っています。

 前回リハビリ病院退院後に一度大学病院に行ったのですが、その時医師にこの件を尋ねると、医師は正直に私の病気の病状は分類上かなり重かったんだと教えてくれました。

 言外にそんな症状でよくぞそこまで回復したという気持ちも含まれているように感じました。

 そこまではめでたしめでたしなんですが、問題はこの先です。ふらつきを感じたまま海外旅行に行けるのか?と考えるとやはり不安で、おのずと行動半径は狭くならざるを得ないなと思います。

 その意味では、今後これまでと同じような充実した生活は送ることができないのではということに気が付きました。ではどうすればいいのか?

 そもそも豊かな生活とか充実した生活というのは、自分自身の達成感に関係するなと思うようになっています。これまではその達成感が人とは少した違う場所に行き、ちょっと変わったものを食べ、美しい景色を見るということで得られました。

 今後それができないとなれば基準を変えるしかありません。つまり与えられた何の変哲もない日常生活の中で達成感や満足感を得る工夫をしないといけないということです。

 というわけ朝6時に起きたら「早起きできた」と喜び、8時まで寝坊したら「睡眠時間を十分確保できた」と満足し、朝食を食べたら今日もおいしい朝ごはんを食べることができたと満足する。

 まあ言ってみれば実に些細なことに喜びを見出すことだと思いますが、これが普通なのかなという気もします。さらにそこに他人とのコミュニケーションが生じて、なんらかの意思疎通があればより満足できそうだなと感じます。

 喜びの基準を上げることは大変ですが、下げるのは結構たやすいかもしれません。その分喜びが小さいとこれまでは考えていましたが、そんな贅沢は言っていられません。

 手術直後に比べると、そういった喜びを得られる環境や条件が整ってきたと前向きに考えたいと思います。


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