自分が変わらないと政治も変わらない

iPS細胞作成でノーベル賞受賞(2012.10.9)

 今日は朝からiPS細胞研究でノーベル賞受賞というニュースが流れ、久しぶりに日本中が明るい話題に染まりました。

 iPS細胞の可能性自体はこれまでも散々指摘されていたわけですが、この受賞であらためてその成果がいろいろとまとめられ今後分かりやすく解説されるのかなと思っています。

 それにしても研究費の少ない環境で、よくもまあこれだけの研究をされたなあと改めて感心します。

 ここのところ優秀な頭脳の海外流出ということが気になっていたので、余計にそういったことを感じますが、受賞された山中教授は一時期やはりアメリカの研究所に在籍していますね。

 頭が良いのはもちろんだと思うのですが、それだけではなく、やはり日頃の努力と忍耐が身を結んだのだと思います。

 しかしこれで1週間ぐらいはテレビのニュースはこの特集ばっかりでしょうねえ。なんか大きな事件があるとそこに一斉にすべてを集中し、関心が途切れてくるとあっと言う間に雲散霧消。あの盛り上がりは何だったんだというのが最近の日本の傾向ではないでしょうか。

 流されやすい、まとまりやすい、というのが日本人のある意味美徳かもしれませんが、個の確立という点から見るとはなはだ心許ない気がします。

 みんなが関心を持つから私も持たなければいけない、みんながこんな恰好をしているから私も同じファッションで、みんながこう言うから私も似たような意見しか言えない、という個性というかアイデンティティというか、ともかく金太郎飴みたいに同じ事が大好き、という民族性があるように思います。

 それが良い方向に向かうと、景気は好転、科学技術は大発展、気分は高揚、誰もがやる気十分という社会になるのだと思いますが、ここ10〜20年は、私も含めて、お互いに「日本は駄目になったよなあ、この先どうなるんだろう」と不満やら愚痴を言い続けているような気がします。

 その結果「政治が悪い」とか「国民性だ」とか「教育がひどすぎる」と何らかの原因を見つけ出し、何かことある度にその部分を糾弾することによって、ある意味世知辛い満足感を得ている、というような気持ちもあるような気がします。

 しかし振り返ってみれば、「政治が悪い」のは、投票に行かなかったり、自分自身が政治には関心を持っていなかったり、という個々人の無関心という責任もありそうです。

 また国民性だと言っても、その中に自分自身が含まれているわけで、自分で自分を否定しているだけです。

 教育の問題も、確かに学校が閉鎖的になっているとは思いますが、育児放棄や家庭内暴力等の問題もあり、さらに保護者会を開いてもロクに保護者が集まらないというような状況で、学校の教員や管理職、教育委員会だけを責めるのにも無理があるだろうなと私は感じています。

 結局今の世相を作り出しているのは自分自身の自覚であり、社会への関与によるものであって、どうしても耐えられないなら、それを変えるか(選挙で)、そこから逃げ出すかしかないわけです。

 日頃様々な社会保障の恩恵を受けながら、今の生活保護制度は間違っていると偉そうに言ってみても、あまり説得力はないように思います。

 要するに個人個人の考えによる自覚が大事なのであって、集団が大好きで個性を主張するのが苦手な日本人は、ある意味一生ブツブツ文句を言いながら、与えられた環境を堪え忍ぶ特性を持っているのかなとも思えます。

 まとまりませんが、ノーベル賞受賞の快挙を聞いて、自分で考え行動するということが大事なんだろうなということを改めて思った次第です。


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