こんな学校に誰がした?

広島の中学生の事件で教育する側として感じること(2016.3.10)

 朝から新聞を読んで、さらにテレビのニュースを聞きながら、書くべきかどうしようか悩んでいました。広島の中学生の自殺問題です。

 教員という職業を選んだ一人としては見過ごせない問題ですが、いたずらに批判してもしょうがないと思っています。ただ批判されてもしょうがない事実があることも間違いないので、なんとも複雑な心境です。

 ちなみに、似たようなことは、今現在全国の小学校から中学校、高校で日常的に起きていることだと思っています。しかし、たまたま当事者同士の話し合いで誤解が解けたとか、大きな事故に至らなかったという事です。

 今の教育界の事情も、そういった傾向に拍車をかけているような気もします。そんなの民間では当たり前だ。単なる愚痴だろうと言われてしまうかもしれませんが、あえて私の感覚で書くと

・ 教育界への予算が乏しいので、教員の人数が足りない(保育所問題と似ています)

・ 教員の高齢化によって、生徒とある意味対等、若しくは腹を割って話せる人が減少

・ すべての生徒を平等に扱おうとして、個別の事情を無視しがち(管理的な教育)

・ パソコンによる報告書の作成が増え、生徒に向き合う時間が少ない(忙しさ)

 まだ他にもいろいろあるのですが、残念ながらパソコンの入力ミスによる不手際は日常的に起きています。私自身、欠席時数を間違えたことは過去に何回かあります。

 これは授業に出席していなくても、部活の試合で欠席(欠席扱いになりません)とか、インフルエンザによる出席停止とかの連絡が、出席簿に書かれていない場合があるからですが、だいたいは学期末に修正しています。

 しかし、中には担任が調査を忘れ、それをさらに各教科担任に連絡しなかったということもあり、この場合は生徒からの申し出で気が付くこともあります。

 私の場合は、普通は生徒から申し出があれば、事情は聴きますが「基本的に生徒が正しい」と判断して修正するようにしています。

 他にも大学受験で調査書の名前の記載ミスがあったり(保護者の婚姻関係にもよります)、転居による住所移動が反映されていなかったり、という経験もあります。

 一番焦ったのは、通知表を渡してから、「この成績は明らかにおかしい」と生徒から言われたことで、これはなんと担当教科の先生の成績の付け間違いでした。一人だけ行をずらして書いてしまったようです。

 というわけで、日常的にミスはありうる、という前提に立って仕事をしているわけで、そう思えば生徒からの質問には真剣に対応する姿勢が生まれ、一方的に決めつけることは少なくなります。

 特に内申書や推薦書等では、本人の不利になるようなことは一般的に書きません。そのために事実確認を慎重にしないといけないと思います。

 広島の事件の場合は、ミスがあった時の最後の砦である担任の先生の確認方法が杜撰。忙しかったのかなと思いますが、それでもやはり客観的には批判されてしょうがないと思います。

 さらに言えば、そのことを本人が保護者に伝え、保護者が学校に電話連絡が出来たらよかったのになあと悔やまれます。 

 一般の保護者から見れば、担任や学校の指導体制が如何にもいい加減でどうしようもないように思えますが、一人の教員という視点から見ると、そんな学校に誰がした、という教育行政の方に目が行ってしまうのも事実です。


表紙に戻る 子育て 約40年の教員生活が終了