プロには適わないが、それでも少しは

人生のまとめの時期に、小成を手に入れるには(2014.7.26)

 私が中学生の頃ビートルズが来日。曲の素晴らしさはあまり分かりませんでしたが、その姿を真似する若者が急増し、男子生徒の間に長髪がはやりました。

 私もそれなりに意識して髪を伸ばしたこともありますが、元来が細い弱々しい髪なので、伸ばせば伸ばすほど自然にウェーブがかかり、なんとも妙な髪形になってしまいました。

 学校では、長髪禁止なんて指導も行われていたようですが、あえてその規則に挑戦する生徒も多数いて、教員たちの心の中では、不愉快な思いと時代の流れかという思いが交錯していたのではと想像しています。

 そんな中、高校生ぐらいからフォークソングがはやりだし、だれもがフォークギターを抱えて歌を歌うようになりました。漫画喫茶ではなく、歌声喫茶なるものも誕生し、実際私も何回か出かけたこともあります。

 ただ私の場合は、父親がクラシック音楽好きだったこともあり、ロック等の音楽にはなじめず、フォークギターもいつのまにか本格的なクラシックギターとなり、大学進学後、クラシックギター同好会に入会。

 一時は授業そっちのけで、毎日数時間弾き続けました。当然周囲にはギター好きの友人が集まり、中にはプロになってもおかしくないと思えるような、卓越した技術を持った人も見受けられました。

 あるとき、「君はそれだけうまいんだから、将来は学部の仕事ではなく、ギターで食べていけるね」と冗談半分でからかっていたら、本人がすごくまじめな顔で、「いや、この程度の技術では、プロとしてはまったく使えない」とはっきり返答があってびっくり。

 つまり、ある程度の技術を習得すると、その先の壁が見えてきて、自分の技量や練習時間がその壁を乗り越えられるかどうかが少しずつ分かってくるということのようでした。

 その子は私以上に、毎日ギターを8時間ぐらい練習していましたが、「それでもダメなんだ」という話を聞いて、プロというのはものすごい努力をしているんだなということが少しだけ分かりました。

 その後年齢を重ねると共に、スポーツや芸術はもとより、小説家、漫画家等々、さまざまな分野にプロと思える方がいて、表面に表れる部分の下に、ものすごい努力が隠されているということが少しずつ見えてくるようになり、一芸に秀でるということはとんでもない努力が必要なんだなと思うようになりました。

 つまり天才と凡人の違いは、持って生まれた能力の差ではなくく、これと思ったことをどのくらい必死に続けられるかという気持ちの差なのかなと思えるようになったということです。

 というわけで、これまでの中途半端な人生を振り返ると、とてもじゃないけどそんな努力は出来ないし、常に腹八分目の努力で「まあいいか」と思ってきましたので、大成するわけがないこともわかっています。

 しかし、60歳を越し、人生のまとめの時期に入っているこの時期に、具体的に何がというわけではないのですが、大成までいかなくても、せめて小成ぐらいは達成できないかと思い、いろいろと手探りで考えています。


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