どこまで便利になると満足する?

労働や行動の対価として充足感を得る(2016.5.12)

 昨日の記事の続きです。便利さを追求することによって、我々はそれ以外に時間的余裕が生まれたという気がします。これは特に収入に直結しない家事労働で感じることです。

 私はかつては亡き妻が購入した食器洗い機を使って食べ終わった食器を洗っていましたが、ちょっと不具合が出たことを機会に使用をやめ、廃棄しました。

 それ以後食器はすべて手洗いです。辛いのは冬場ですね。ともかく水が冷たい。当然湯沸かしもありますので、それを使えばいいわけですが、「もったいない」と思って使っていません。

 もし食器洗い機を使えば、この時間は機械がやってくれますので、あとは洗い終わった食器を棚に戻すだけという作業になります。手洗いの場合は、洗いカゴに洗い終わった食器を並べ、自然乾燥させてから棚に戻すという作業になります。

 前者の作業時間は5分ぐらい?後者の作業時間は20分ぐらいでしょうか?どちらが良いかは分かりません。好みにもよると思います。

 洗濯機は以前二層式のものを使っていましたが、これは全自動(ドラム式ではない)のものに交換し、「ずいぶん楽だな」と感じます。放り込んでスイッチオン。あとは干すだけ。ただし干す作業は結構時間がかかりますね。

 掃除はルンバという機械がもてはやされるようになり、これまた場合によっては自分で掃除機を持ってあちこち移動するという手間が省けつつあるような気がします。

 食事は、節約のため私は自炊を基本にしていますが、昼食等はパスタ麺を茹でてレトルトのパスタルーを加熱してかけて食べることもありますので、これまた実に便利だなと思えます。

 しかしそうやってどんどん便利さを追求して、余った時間に何をするのかというのが問題のようにも思えます。テレビは9時ぐらいから、明らかに主婦向けと思われる料理やゴシップ報道が多くなります。

 それを見て、スマホ等で情報交換をしているうちに1日が終了、なんてことになったら、どんな部分に充実した生活というものを感じることができるのかと心配です。

 昨日も書いたようにVR(バーチャルリアリティ)を使えば、居ながらにして世界各地の情景を立体的に楽しめる時代になりつつあります。これに音を加え、匂いを加えていくと、徐々にバーチャルの世界は現実と変わらなくなりそうです。

 わざわざチケットを買って遠い空港に出かけなくても、自宅のゆったりした椅子に座って、こういったことが体験できるようになったら、旅行者は激減してしまうのでしょうか?

 何かを行うとか、何かを得るというのは、そこにある程度の努力が必要で、その対価として何かが得られるという感覚を私は持っています。何もせずに得られたものの価値は低いという考えでしょうか?

 当然ながら結論はありませんが、どこまで便利になれば人間は満足するのか?そしてそこまでたどり着いたとき、今より生活に充実感が得られるのかが気になります。


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