定年後は人生の終盤ですが
まだまだ一波乱ありそうです

人生は囲碁将棋の対局と似ている?(2014.1.24)

 私は小学生の頃、祖父に将棋を教えてもらいました。そのまま将棋に興味を持って、実力がどんどん上昇。地方大会で優勝、さらに小学生チャンピオンとかになっていれば、人生は変わっただろうなと思っていますが、事実は単なる遊び程度。

 それでも中学生の頃は結構真面目に友人と将棋を指し、一丁前に将棋の定跡集やら詰め将棋、戦法の本等を購入し、紙の上にそれを並べて喜んでいました。

 私は居飛車党でしたが、当時は居飛車というと矢倉囲い、棒銀、腰掛け銀、雀刺しという戦法がもてはやされました。

 これらの戦法は序盤30手ぐらいまでは定跡が出来ていたようで、ほんの数分で互いにコマ組みを行い、そこから闘いを始めると言うのが普通でした。

 ところがいつの頃からか、闘いは序盤から始まるのが当たり前のようになってしまい、たまにNHKの将棋対局を見ていると、あれよあれよというまに先端が開かれ、一気に終盤という光景が当たり前になっています。

 しかし試合そのものの手数は昔も今も100手前後で終わっていますので、1手の価値が昔に較べると序盤から大きくなったと言えそうです。

 それはそれとして、いっぱしの将棋指しになったようなつもりで、さまざまな戦法を身につけ、友人同士で将棋を指し、ある程度勝てるようになった頃高校に入学。

 高校に、たまたま「囲碁将棋同好会」というのがあったので入会。詳しいことは忘れましたが、2年か3年の時に大会出場。3回戦まで進みましたが、そこで敗退が私の最後の公式記録?

 3回戦まで勝ち残ったのは、私と当時の主将だけでしたから、ちょっと気分が良かったです。

 その後囲碁にも手を出したりしていますが、こういった囲碁将棋の戦いというのは、振り返ってみるとつくづく人生の縮図だなと思います。

 序盤は夢を持ち、その夢を実現するための体制作り。ところが中盤になって、様々な横やりが入る。その横やりに対して正面から闘ったり、側面から攻撃したり、場合によっては無視して、違う部分を補強したり、撤退したりと実際に生活してきた人生とあんまり変わらないなあと思います。

 時には、王手飛車なんていう絶体絶命の窮地に陥ることもありますが、飛車を取られつつ、なんとか挽回の道を探り、王様だけは取られないようにする、なんてのは、諺で言うところの「禍を転じて福と為す」とまったく同じだなと思えます。

 私は、大学時代に父親が心臓病で急逝しました。その後何とか教員として30年ほど仕事を続けたものの、今度は4年前に妻が他界。

 飛車を取られ、金を失ったような感じですが、それでもなんとか囲いを修復している内に、最初は「歩」だった一人息子が、もしかしたら「と金」に代わるかもしれないと考えると 、まだまだ局面は興味深いです。

 私にとっては、人生の盤面はすでに終盤に入っていて、このままいけばなんとか無事に終局を迎えるのかなと思いますが、それと同時に今度は息子が新たな盤面に挑戦するということでしょうか。
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