理想的な最後の迎え方(2016.6.27)
今日の朝刊はEU離脱問題関係の記事が多いのですが、そんな中に「健康長寿へ老化研究本格化」という記事が出ていました。老化の仕組みの解明や病気の予防につながる研究を本格化させるという事のようです。
さらっと読んでしまえば、誰もが長寿を願っていますから「良いことだ」と思うかもしれません。しかし先日の新聞には、生物としての人間を考えると少子高齢化は当然という記述もあり、複雑な思いです。
つまり生物というのは、その寿命が短ければ多産であり、寿命が延びると多産から少子高齢化に移行するというものです。同じ環境の中で寿命が延びれば、食べ物を取り合うことになりますから、当然子孫は少ないほうが良いという単純な結論になります。(記事には食べ物のことは書かれていません)
日本の周辺では海洋権益の問題が顕著になっていますが、これも一種の生きていくためのテリトリーの奪い合いだと解釈することもできそうです。
寿命が延びて人口が増えれば、食べ物を増やすか、産む量を制限して少子高齢化に移行する方法でないと、その人口を維持できません。
当然ながらいち早く少子高齢化に突き進んでいる国は、周辺の国からどんどん浸食されるという事態が生物学的に考えられます。
ではどうすればよいのか?寿命が延びれば人口は維持できますが、国の活力はどんどん低下するような気がします。
では逆にもし寿命が短くなれば子供が増えるのか?いまだかつて平均寿命が短くなりつつある国はないような気もしますので、その先は全く不明。
しかしこのところ自分の最後はどうなるんだろうか?と考えることもあり、ただただ長寿を追い求めるより、「もうこの辺で良いか」と思ったとき、自分の意志で最期を迎える選択肢があっても良いのではと思うようになっています。
まあ今は大病をしていないので、そんなのんきなことを言っていられるのかもしれません。しかし健康を維持しつつ、無理に長寿を思い求めず、ある時ス〜ットというのが理想的な最後であるような気もします。