高村光太郎の「道程」

2019.3.26

 今回のバンコク・パタヤ旅行は、帰国して今振り返ってみると、いかにも夢の中のような旅行だったなと感じています。別にバラ色の夢でも、ひたすら悲しい夢でもないのですが、なんだか行ってきたという現実感が今回は乏しいです。

 どうしてだろう?といろいろ考えて原因については別のブログにも書きましたが、そういったことを思っている過程で、ふとしたことで高村光太郎さんの「道程」の中の有名な一節を思い出しました。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

という語句ですが、原文を調べてみるとかなり長いみたいですね。上記2行の語句だけを知っています。

 まあ解釈はいろいろあると思うのですが、「ひたすら先の見えない長い道を歩いていくのが人生だ」ということになるのでしょうか。我流の解釈ですから間違っているかもしれません。

 旅行に行っていつも思うのは、旅行も一種の人生の縮図だなという思いです。出発(誕生)から帰国(臨終)までの過程で、日常生活ではなかなか味わえない様々な体験をします。

 その際老後の人生でも感じていることですが、基本は自身の健康維持。街中をあちこち動き回るのには最低限の体力が必要。しかし体力だけでは生きていけない。

 必要なのは食べ物を買ったり宿泊したりする経済力。当然ながらあり余るお金を持って豪華なホテルに宿泊し、美味しいといわれているものをたらふく食べる旅行もあれば、日々何とか出費を減らし旅行を続ける人もいると思います。

 また滞在場所に関する知識も必要。ある程度語学ができればそれだけで豊かな体験ができそう。また滞在場所の地理的背景や暮らしている人々の生活習慣に関する知識も必要。

 これら三つの条件、健康、経済、知識が一つになって旅行が継続できるわけですが、もう一つ大事なことがあります。それは旅行の目的

 観光、体験、ふれあい何でもいいのですが、ともかく目的が必要。その目的を達成するために三つの条件を駆使するわけです。

 とここまで考えて、なんだ要するにこれは老後の人生の過ごし方じゃないかと気が付きました。結局老後の人生も健康、家計、教養を駆使して、最後に向かって少しずつ近づいていくということなんだなということです。

 ただ通常の旅行と違って人生の終焉はどこが目的地なのか良く分からないというのが問題。明日突然交通事故でとか、大地震が来て生き埋めとか、まあ堅牢な人生を歩んできたと思っていても、足元がいつ崩れるかは不明。

 逆に予想以上に長い道が続いていて、体力や経済力が続かなかったということもあり得そう。

 だからこそ日常生活の中で様な危険を察知しようと努力するわけですが、まあ往々にして、しっかりとしたレールの上を進んでいるなと思えた人生でも番狂わせが起こります。

 というわけで最初の話に戻るわけで、僕の前に道はない、僕の後ろに道ができるという語句は実に意味深だなと感じています。



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