生きてきた証とは

この世を去ったとき残すもの(2012.4.23)

 定年後の事を考えていたら、その後のことまで考えるようになってしまいました。すなわち私亡き後のことです。

 自分のあずかり知らぬ場所でいつのまにかこの世に生まれ、何だかよく分かりませんが「自分は生きている」という実感を持ち、何十年も生活し、最後はこの世からいなくなる、という現実に直面するのは人間である限り当たり前のことです。

 しかし、なぜかいなくなる間際には、「自分は何をやってきたのか」という疑問にとらえられ、「出来れば何かを残したい」という思いを持つ人は結構いるのではないでしょうか。

 その思いが、自分の権力や勢力を誇示するために、必要以上に大きな墓(ピラミッドや古墳)を作ったり、数々の芸術作品や書籍を残したり、と言う動機につながるのかなと思いました。

 しかし権力者や芸術家はともかく、一般の凡人が何かを残すとすれば、それは生命の根元的な課題である子孫を残す、というのが一番大きな意義かもしれません。

 ただそうはいっても、子供がいるから俺はもう充分、と考える人は少ないような気もします。自分の心理をいろいろ探ってみると、「自分がある時代に生きていたんだ」という証拠が残るといいなあ、と言う気がします。

 しかしこの世にいなくなれば、自分が残した物が本当に存在するかどうかを認識することは出来ないわけで、生きているからこそ何かを残したいと思っているだけのような気もします。

 ただこの「残したい」という動機はいったいどこから生まれているのか。やはり生きていても「自分の存在価値を確かめたい」という、自己充足感が必要なのかなと思えます。

 少々哲学的な考察なのでうまくまとまらないのですが、生きているからこそ何かを残したい。何故残したいかと言えば、自分がそこに存在したと言う証が出来ることによって、生きている内から精神的安らぎをを覚えたい、ということでしょうか。

 だとすると、人間というのは自分の存在価値というものにひじょうに大きな意義を見いだそうとする動物なのかな、という気がします。

 だから何だ、という結論めいたものはほとんど何も書くことは出来ないのですが、何かを残したいと考えたとき、何を残せるのかなとちょっと考え、自分が行った業績を残す、という観点に立てば、ここでこうやって書いているブログやホームページももしかしたら残せるものの一つかなと言う気がしています。

 10年後、20年後に息子が、父親が書いたこの文章を読んで何と思うか?まったく七面倒くさいことをあれこれ考えていたんだなと思うか、なるほどあのとき父親はこんな考え方をしていたんだ、と思うか、想像するだけでちょっと楽しいなとは思えますが、それを確認できないのが残念です。 

 こんな事を考えるのも私自身が学生の時に父親が急逝し、その頃父親がどんなことを考えていたのかメモでも残っていればなあと思うことも理由の一つです。


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